他国にはない「厳粛さ」が求められる日本の卒業式。
「厳粛さ」が求められるがゆえに、子どもたちは卒業式まで何度も何度も練習を重ねることになります。
このような現状に対して、Twitterでは疑問視する声が教員や保護者のツイートで流れてきました。
卒業式からこっち、考えていること。
・なぜ学校で儀式をするのか?
・いつから厳粛な卒業式をしているのか?
・厳粛な卒業式の効果は何か?
・他国の卒業式が厳粛ではない理由は何か?
・厳粛な卒業式は誰得なのか?そして、
・学校の教員は、気がつかないうちに教育の本質を見失っていないか?
— うつつの世は夢💫夜の夢こそまこと (@mewl_mewl) 2019年3月17日
卒業式は厳粛じゃないと、感動出来ないのでしょうか?
歌が完璧じゃないと、感動出来ないのでしょうか?
お辞儀のタイミングがズレたり、立ち上がるタイミングがズレたら、感動出来ないのでしょうか? https://t.co/UCNjYpwve3— Enako (@Enako14) 2019年3月18日
なぜ、卒業式練習になると、急に「こうあらねばならぬ」のような線引きがされるのだろう。「ピクリとも動こうならすぐに注意してやる」と言わんばかりの教師の恐ろしいあの目。厳粛に、厳かに、規律正しく。わかるけど、卒業式って「おめでとう」「ありがとう」がもっと溢れる場になったら嬉しいな。
— ふるだて せんせい(35) (@YoshiJunF) 2019年3月12日
卒業式であんなに練習するのは、保護者が「揃ってて綺麗だった」とか「厳粛な式で感動した」ってわざわざ伝える人がいるからでは。
だから、嫌だと思う人は「軍隊みたいで気持ち悪い」「堅苦しくてしんどい」等ちゃんと伝えるべきなんだと思う。『見せ物でなく、子どものための式にしてほしい』と。
— なな (@iikLJRS5oG6plWn) 2019年3月9日
小学校の学習指導要領より。なぜ→学校生活に有意義な変化や折り目をつけるため。厳粛な卒業式の効果→卒業式は儀式的行事にあたるので、厳粛で清新な気分を味わうため…だそうです。
受け止める感覚は個人差がでかいです。こんな書きっぷりでいいんですかね、学習指導要領。 pic.twitter.com/gU9LFffXrM— TCtmk (@fVCZYegx8wn76fL) 2019年3月17日
私も厳粛であることに疑問を抱いています。
Wikipediaなので信憑性は怪しいですが、卒業式は元々、軍事学校のものが元になっているようです。日本の社会においては式は厳粛なものとされているので、経験させる必要性は否定できませんが、少しずつそこも変わるのでは?と思っています。
— あきかん先生(小学校) (@akikan_sensei) 2019年3月17日
何度も練習させられて、用意されたセリフを大声で言うのは何のためなんだろうって小学生の頃から思っていました。
うちの子供たちが通った幼稚園は、厳粛な卒園式のため卒園児の弟妹の同伴NGでした。下の子を見るために夫婦どちらかは参加できないし、ワンオペ保護者は預け先を探すのに必死でした。— Seaglass (@9Lovepotion) 2019年3月18日
儀式は形式が全てなので、本来の意味である「卒業を祝う」というよりも学校や保護者にいかに見栄えが良いかを最重要課題にしてるので滑稽なんです。
— マフティー·ナビーユ·エリン(真実を語る人) (@hanaasakuraanna) 2019年3月18日
今回は、その是非を考えるために、なぜ卒業式が「厳格さ」が求められるようになったのか、その歴史を『卒業式の歴史学』(2013年有本真紀)からまとめました。
◆1872(明治5)年〜「試験状」授与期
明治5年の学制発布をもって、日本の近代国家としての教育が始まります。当時はまだ「卒業式」ではなく「卒業証書授与」という行事で、進級試験の合格証明の場であったことが『卒業式の歴史学』を読むと分かります。
卒業式は「卒業証書授与式」とも呼ばれるように、もともと卒業証書授与に始まった行事である。小学校における卒業証書授与式の成立を探るには、まず1872(明治5)年の「学制」に遡る必要がある。等級制を採用して開始した日本の近代小学校は、下等小学第八級から第一級、上等小学第八級から第一級までの十六段階に区分され、各々の階梯を昇るには試験が行われた。この試験が、近代日本の学校制度存立の根幹を担ったといっても過言ではない。(P55)
当初の学校は現在のような学年学級制とは異なり、就学を希望した子どもは年齢にかかわらず下等小学第八級に入れられ、試験に及第して「試験状」すなわち受験した級を卒業したことの証明書を得なければ第七級に進級できなかった。この「試験状」は、「下等小学第八級卒業候事」のように記載され、一般に「卒業証書」と呼ばれた。ここからもわかるように、当時の「卒業」は現在のように小学校六年間といった学校段階全体の修了だけをさすのではなく、各級の修了に際して使われていた。(P56)
そして、その雰囲気は厳格なものだったようです。
試験による進級の認定は、学校のみならず四民平等となった社会制度の基底となるべきものであって、一学校の裁量では実施できず、官史立ち合いの下に行われる極めて厳格なものであった。(P57)
試験の様子を見せたうえで、「誰がよくできる子どもなのか」「及第したのは誰か」を人々に知らしめることこそ、「学校を卒業することが立身に結びつく」という思考を植えつけるために有効だと考えられたのだろう。これには学校の外に優秀者や及第者とその成績を掲示する方法もとられたが、衆人環視の中で及第者を発表し、褒美としての「試験状」を授与するのが最も効果的な方法であった。学務官史らの立ち合いによって権威付けを行い、多数の参観人が注目する中で成績を明確に可視化するために、試験当日の証書授与が行われたのである。(P65)
ただし式自体は、現在の卒業式のような歌唱や呼びかけなどはなく、及第宣告と授与のみのシンプルなもののだったようです。
1885(明治18)年以前、師範附属学校以外の小学校で授与の手順がわかる記録は、管見の限りこの他にはみられない。それは、授与が試験の一過程であったことの証左でもある。手順が記録されていないということは、おそらく及第宣告と授与のみか、せいぜい演説が加わるシンプルなものであって、わざわざ記録するほどの意味を感じられていなかったのであろう。しかし、上記の細則は着席と退散の順序、立礼を行うべき箇所を明確に示して整然とした場をめざそうとしており、一般の小学校でも卒業式成立の前段階に至ったことを示している。(P73)
◆1880(明治13)年~授与のみの「卒業式」初期
年齢主義がとられるようになった1880(明治10)年代からは、「卒業式」が始まります。
ただし、内容としては授与のみのシンプルなもので、式次第は存在しなかったようです。また、必ずしも厳格な雰囲気でもなかったようです。
附属小以外の小学校で「式」として記録されている最初期の例としては、東京府京橋区泰明学校と下谷区下谷学校の1880(明治13)年7月20日の「小学校卒業式」が挙げられる。「両校とも卒業生徒5人へ賞碑と証書を授与され式があツて演説祝辞等もあツて中々盛んでありました」(読売新聞1880.7.22)とあるように、式は授与のみで演説や祝辞は式の終了後に位置づけられている。(中略)このように「式」と呼ばれるようになった初期の例のうち、学校日誌等に時間が記録されているものを見ると、式の開始時間が午前中もしくは午後一時となっている。このことは、証書授与が試験当日に行われなくなったことを示している。(P92~93)
当日授与の時期から、試験の日には多くの人が学校へ詰めかけていた。それは必ずしも厳格な試験を参観する雰囲気とは限らず、「丸で御祭騒ぎである。学校の門前両側には飴菓子などを売る露店が、処狭き迄に陣取って居る。野次馬は右往左往する」(千葉県教育史巻1979年)という景況であったという。これが、試験とは日を改めての「授与式」として独立してからは、周到な準備が可能になり、全級合同で開催することでさらに盛大な行事となって、内容も大きく変化した。明治10年代末から20年代にかけての卒業証書授与式は、運動会と並んで地域の参観者を集める二大学校行事といえるものであった。(P97)
1886(明治19)年12月17・18日、下都賀郡第一番学区栃木男女両学校では、一日目に1025名への証書授与が行われ、オルガンに合わせての唱歌と、別間に博物標本陳列場を設けて参観人への縦欄が行われた。二日目は「一層の盛式」で、郡長、判事、検事、病院長をはじめとする来賓と「町村特志者」のみならず、「山間の老弱男女甚多く」が参集した。午前中は、高等科一級卒業の四名への証書授与と延べ335名の優等生への賞与が行われた。午後には男校訓導か物理化学の実験を披露し、女訓導は唱歌の効用を述べ、オルガン伴奏によって女生徒が唱歌数曲を演奏した。さらに中等科以上に男生徒が「友歩場に於て徒手亜鈴球竿体操及隊列運動遊戯運動」を行った。地域の人びとに対する啓蒙や娯楽の要素を含みこんだ卒業式手順である。(P97〜98)
◆1890年(明治23年)~全国統一の「式次第」期
1890(明治20)年代には教育勅語が発布され、「式次第」が定着し、厳格なふるまいが要求されるようになっていきます。
明治20年代前半に行われた大日本帝国憲法および「教育ニ関スル勅語」の発布、帝国議会招集をはじめとする立憲政治体制への移行は、小学校卒業式にも多大な影響を及ぼすことになる。卒業式の式次第が全国的な統一をみせるのは第二次小学校令期(1890-1899年)終盤のことであり、それは国家の教育政策とともに密接に関連していた。この式次第の変化が、卒業式の性格自体を大きく変えていくことになる。(P104)
明治20年代前半には、およそどの小学校でも卒業式は自校での単独開催となっていた。準備に時間をかけられるようになった卒業式は、成績品展示や運動会などの催しと組み合わせて行われた例が多くみられる。前章にも述べたように、卒業市域は宣告と褒賞の場から祝祭へ、それも卒業生を祝うだけでなく、住民にとっての娯楽や啓蒙を含む「村の祝祭」ともいえるような行事になっていた。(P109)
こうした「村の祝祭」に、もうひとつの別の祝祭が加わっていく。それは、「国家の祝祭」である。(中略)「国家の祝祭」は、式当日の飾りつけにも取り入れられていく。1890(明治23)年3月28日の長野尋常小学校卒業式では、講堂正面に「畏くも 今上皇帝陛下並に皇太子殿下の御肖像を高く安置し奉り紫縮緬の幕を張れり其下には数個のテーブルを位置能く据へて総て糸の毛布をひ三箇の大花瓶」(信濃毎日新聞1890.3.30)が置かれ、緑竹や紅白の梅桃が飾られた。加えて、同年十月に「教育ニ関スル勅語」が発布されると、翌年春には卒業式に勅語奉読を加える学校が現れる。たとえば、3月26日の松本尋常小学校がそうである。(史料開智学校第一巻1998年)(P110)
明治20年代半ばを超えると卒業式の多様性は急速に失われ、娯楽と啓蒙の要素が排除される。式は時間が短縮されて簡潔になり、明治30年前後には全国的に式次第が定型化するのである。並行して、かつて卒業式に組み込まれていた体操や学芸の成果発表的要素は、単独の行事として別に組織されていっ。式次第が固定化したのには、祝日大祭日儀式規定を受けて県や郡市単位の自治体、訓導協議会などが卒業式についても具体的な規定を作成したこと、教育雑誌にも類似した式次第や海上のしつらえが掲載されたことが大きく影響している。(P115)
『教育報知』第350号には、各種学校儀式についての説明に「卒業(修業)証書授与式」の式次第も掲載され、それは項目ごとに誰がどのようなふるまいをすべきかを記したマニュアルとなっている。この式次第に勅語奉読は含まれていないものの、注目すべきは括弧内に示されたふるまい方に関する事細かな記述である。生徒は教員に先導されて整然と入退場し、前任が学期の合図にタイミングを合わせて頭を下げることがめざされている。音による一斉行動は、参加者一同が儀式の場に響く音の意味を予め理解して自動的に応じる事を前提とし、言葉による命令以上に斉一性を要求する。(P121)
さらに興味深いのは、証書授与と総代答辞の項に記された生徒のふるまいである。身体は細分化され、手や状態の位置だけでなく、視線を向ける先までが指示されている。こうして厳密に規格化された卒業式でのふるまい方が全国的な規範として行き渡っていった。この規格に適うふるまいができることで、卒業する児童は「卒業生」としての威信を承認される。また、生徒たちの行動が整然としているか否かにより、教師と学校の指導が評価される。たとえば、1894(明治27)年3月28日に行われた札幌の創成小学校卒業式は、「厳粛にして紀律正しく生徒行状の乱れさりしは模範学校たるに恥ぢさりき」(北海道教育雑誌 第18号1894.4)と評価されている。この評価の視線のために、行動の規格化は加速度的に進んだと考えられる。
さて、前述のように式次第やふるまい方が標準化してくると、卒業式の事前練習は念入りに行われるようになる。生徒たちが型通りにふるまい、式が滞りなく整然と進行できて当然と思われるからである。学校日誌には、明治20年代半ば以降、学年末試験から卒業式までの間に全校生徒を集めて予行演習を行った記録が散見されるようになる。1891(明治24)年3月の松本尋常小学校日誌にっよれば、試験結了は3月20日金曜日で、3月23日には微雪の中「本日ゴゴハ練習ノタメ庭前ニ整列ス」とあり、24日も「練習前日ノ如シ」と記録されている。25日は「本日試験ノ成績ヲ報ジ通知簿ヲ渡シテ生徒ヲ退散セシ」め、26日に「職員一同午前八時に出校シテ準備ヲナシ午後一時ヨリ」証書授与式が行われた(史料開智学校第一巻1988年)。(P128)
★まとめ
日本で卒業式で「式次第」が定着し、子どもたちに厳格なふるまいを要求し、事前練習を繰り返すようになり始めたのは、1890(明治20)年代〜でした。
約130年も前から変わらない慣習を未だに続けているとは驚きです。
『卒業式の歴史学』の著者・有本真紀氏は、卒業式の儀式について次のように述べています。
公共的儀式の執行は、権力にとって重要である。なぜなら人びとが儀式に参加し、参集者が当該儀式にふさわしいふるまいをすること自体が権力を成立させ、追認させるからである。(P14)
卒業式の「厳格さ」が、どのような理由からきているのか、誰にとって必要とされているのか、今一度そのことを意識しながら、本当に現代にこの「厳粛さ」が必要なのか、国民的議論が必要なのではないかと個人的には思います。