”2分の1成人式“反対への批判を内田先生が「教育という病」で完璧に論破していたので紹介する

保護者の熱狂的な支持と保護者に阿る教員によって、ここ10年で急速に拡がりを見せてきた行事です。

私も以前、小学校4年担任時代の経験をもとにして、元小学校教員が挙げる、2分の1成人式を即刻やめるべき5つの理由という記事を書き、約30万人に読んでいただき、たくさんの賛同をいただきました。

しかし同時に、

  • 「どんな行事や授業も、それを不満に思う子どもはいる」
  • 「子どもの嫌な思いに耳を貸していたら、学校の行事も授業も何もできなくなる」

等の批判もいただきました。

しかし、名古屋大学大学院准教授・内田氏は「教育という病」という著書で、

「2分の1成人式」に対する不満足には、そうした個別の好き嫌いでは済ますことのできない問題が含まれている。(出典:第2章「2分の1成人式」と家族幻想 以下同)

と、それらの批判に反論(論破)をしています。

今回は、内田良氏の「教育という病」で主張されている”2分の1成人式”の問題点について、紹介していきます。

◆そもそも2分の1成人式とは?

2分の1成人式とは、10歳を祝うイベントとして学校で授業参観の一環で行われる行事です。

具体的な内容として内田氏も次のように解説しています。

〇将来の夢(就きたい職業)を語る
〇合唱をする
〇「2分の1成人証書」をもらう
〇記念になる品を工作する
〇保護者に感謝の手紙をわたす、保護者から手紙をもらう
〇自分の生い立ちを振り返る(名前の由来、誕生時の写真)

学校によって多少の内容の違いはありますが、大体このような感じで行われます。

そして内田氏は、上記の内容のなかでも下2つ(赤字)に問題があるといいます。

◆手紙のやり取りに問題がある理由

手紙のやり取りを行う(場合によっては式での手紙の朗読する)ことに問題がある理由について、内田氏は次のように述べています。

式では、親への感謝が集団的に強制される。「お母さん、ありがとう」「お父さん、お仕事お疲れ様」とお決まりのセリフを子どもたちは書く。ここで問題なのは、「親は感謝されるほどに、子どもに尽くしているはず」という幻想のもとに、式が成り立っているということである。

そうなのです。この行事の最大の問題点は、虐待を受けている子ども等の少ないけれど確実に少数はいる特別なケースへの配慮が一切なく、「親は感謝されるほどに、子どもに尽くしている」前提で行われていることだと私も思います。

そして、実際に虐待を受けていた人のメッセージを引用しています。

2分の1成人式は親に迎合したイベントにすぎない。親に感謝すること自体は大事だけれども、この行事は、虐待の問題提起の芽を摘んでしまい、さらに不幸を増幅されることにつながる。

このような不幸を増幅するような行事、学校が行うことに問題があります。

◆生い立ちの振り返りに問題がある理由

また、内田氏はもう一つの問題として、生い立ちの振り返りを挙げています。

「2分の1成人式」の実施項目のなかで、保護者への感謝の手紙と合わせて、もう一つ慎重に考えなければならないのは、生い立ちを振りかえるという取り組みである。具体的には、自分の名前の由来を親から聞いたり、誕生時や幼少期の写真を家からもってきたり、それらを含めて自分史をつくったりする。

この生い立ちを振り返る学習、2分の1成人式だけでなく、2年生の生活科の学習でも行われることも多いです。

生い立ちを振り返ることの何が問題なのか。端的にいえば、家族が長年にわたって幸福に満ちていること、そして、その構成員もずっと変わらずに今日まできていることが暗黙の前提とされている点である。家族は幸せでずっと変わらないものという前提があるからこそ、過去をさかのぼって人前で語ることができるのである。

過去を振り返るという実践は、子どもだけでなく保護者の側にも厳しい現実を突きつける。(中略)特殊な事情を経た保護者にとっては、過去を振り返ることが困難な場合もある。

ここで問題なのは、「離婚も再婚もなく、子どもは実父母のもとで育てられている」という単一の家族像がベースになっているという点である。子連れ再婚が珍しくない時代、家族の多様化が進む時代に置いて、「保護者に子どもの過去のことを問えば、すぐに答えが返ってくる」という発想はそろそろ賞味期限切れである。家族にさまざまなかたちがありうることが前提とされるべきである。

そして、父子家庭の保護者、再婚をした保護者のコメントを引用しています。

我が家は妻が死別した父子家庭です。学校から、誕生時の様子や成長過程のエピソード等をもってくるようにと宿題が出されました。実際のところ、母親にしか分からないことも多く、宿題には苦悶しました。母子家庭や父子家庭への配慮がほしいと強く感じました。

幼い頃の写真がないにもかかわらず入学前の写真を提出しなければならず、さらに手紙を書く作業もあり、親子ともども苦痛でしかありませんでした。結局参加するのが嫌になって、欠席をしてしまいました。

母子家庭・父子家庭、離婚・再婚、子連れ再婚など家族の形態が多様化しているなか、生い立ちを振り返る学習は彼らに余計な負担をかけることになるので、2分の1成人式に限らずもうやめるべきではないでしょうか。

◆子どもは自ら家庭を選べない

内田氏は、学校教育の成り立ちから考えても、この行事は問題があると述べています。

学校教育というのは本来、子どもの家庭背景を問わない場として設計されたものだ。江戸時代の身分制度を脱して、明治時代に今日につながる学校教育制度がつくられた。学校は、生まれ(家庭背景)に関係なく子どもが平等に学べる空間として誕生したのであった。

以前、私も「学習のスタートラインを揃えるべき」であるから2分の1成人式は公教育にそぐわないと書きました。

そして、言わずもがな、子どもは自ら家庭環境を選択できません。これが「どんな行事や授業も、それを不満に思う子どもはいる」への直接的な反論になります。

「2分の1成人式」がもたらす苦しさの原因は、子どもの意志では動かせない対象である。その家庭背景のことで、特定の子どもが不利益を被る事態は、回避すべきである。

さらに厄介なのは、そこに「集団性」が加わっているという点である。感動によって問題が不可視化されるだけでなく、集団の圧力というものが、個々別々の問題を見えにくくさせる。「虐待も離婚・再婚もなく子どもが元気に育っていくという家族像を礼賛したがる多数派のもとで、少数派の声はかき消されていく。しかも、子どもにとって家庭背景はコントロールできないものであり、少数派であることを自分の意志で選んだわけでもない

★まとめ

内田氏は、2分の1成人式を書いた章の最後にこのように締めています。

10歳の節目は、家庭背景をわざわざ根掘り葉掘り引き出さなくても、祝うことができる。学校は、子どもの家庭背景をあれこれ活用する場であってはならない。家庭背景を問わず、子どもたちが前を向いて生きていけるようなかたちでの「2分の1成人式」が望まれる。

そして、保護者にも次のようにメッセージを送っています。

学校教育の範疇で教員が始めたイベントであるからには、仕掛け人が教員であることはまちがいない。しかしながら、教員はなぜこれほどまでに「感動」を追求しなければならないのか。(中略)教員が「感動」を求めてしまうことの背景に、保護者からのまなざしがあるのだとすれば、保護者は教員が冷静に子どもの現状を見ることができるよう配慮すべきである。少なくとも、教員と一緒になって子どもをモノ化し、集団感動ポルノに浸ってしまうことだけは避けなければならない。

私も同意見です。

“式”を行うのではなく、保護者とは特別接点をもたない、「総合的な学習の時間」において子どもたちが自らについて考える学習に戻すべきです。

そして、保護者には教員が冷静に子どもの現状を見ることができるよう配慮していただきたいと思います。

以上、元公立小学校教員トウワマコトによる、「”2分の1成人式”反対への批判を内田先生が『教育という病』で完璧に論破していたので紹介する」でした!

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