教育は”特殊”ではない!―苫野一徳×内田良『みらいの教育』出版記念トークライブに行ってきた

12/8、東京八重洲ブックセンターで、教育哲学者の苫野先生と教育社会学者の内田先生の『みらいの教育』出版記念トークライブが行われたので、行ってきました。

そのトークの模様は、分かりやすくイラストにまとめられた方のツイートやYoutubeにトークライブの模様がアップされているので、そちらをご覧いただくとして、本記事では”教育の特殊性”について取り上げます。

この”教育の特殊性”は、『みらいの教育』でもメインテーマの一つになっています。

では、『みらいの教育』から、教育の特殊性批判をみていきましょう。

◆”教育は特殊”だとしてきた歴史

まず苫野先生は、教育は特殊であるという言説の歴史的背景をこう解説しています。

戦後社会学は、教育は政治や経済などとは異なる論理で成り立つとして、「教育固有の価値」という表現を浸透させました。教育には独自の価値がある、と主張することで、政治や経済などから距離をとるという意図があったのです。(P27)

◆具体的事例

その具体的事例として内田先生は、教育が”特殊”だとして、教育界だけで許容されている事例として、体罰や組体操のタワー、給特法を挙げます。

本来、体罰には暴行罪、結果として子どもがけがをすれば傷害が適用されなければならない。(P28)

学校における給特法の適用は最たるもので、時間外手当をもらわずに働くのが「美徳」となってしまっています。(略)この考えを支えるのが、教員は「特殊」な職業であるという意識です。(P28〜29)

◆公教育は市民社会の土台

苫野先生は哲学者の立場から、公教育は市民社会の最も重要な土台である、といいます。

公教育は市民社会を支える根幹なのですから、市民社会のルールにのっとるのは当たり前のことです。(P30)

一般の公務員と同じく、教師の職務もまたヘーゲルの言葉を借りれば市民社会の『普遍的利益』を目指すものにほかならない。(P75)

「人格の完成」に向けた教育とは、どこに存在するのかよく分からない、人間の崇高な理想像に向けて子どもたちを教育する「特殊」なものではなく、<自由の相互承認>の感度を土台に、自ら<自由>に生きられる、<自由>な市民へと育むことにほかならない。「人格の完成」の意味は、哲学原理的にはそれ以上でも以下でもない。それゆえ、教師の職務は、一般の公務員とは異なった崇高で「特殊」なものであるという論理は全く成り立たない。(P77)

★まとめ

戦後、日本の教育学は”教育は特殊”として、語られてきました。

しかし、それは今、本当に妥当性があるのか。

苫野先生と内田先生は、『みらいの教育』でこのことを明らかにしています。

以上、「教育は”特殊”ではない!―苫野一徳×内田良『みらいの教育』出版記念トークライブに行ってきた」でした!

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