マニュアル化する学校―「スタンダード」のメリットと弊害について考える―

今、学校現場では「〇〇小学校(〇〇市)スタンダード」が急速に拡がりをみせています。

にも関わらず、その是非についての議論は尽くされているようには思えません。

本記事では、

  • 「学校スタンダード」とは何なのか
  • 具体的にどんな事例があるのか
  • どのようなメリットや弊害があるのか

などについて、まとめました。

◆「学校スタンダード(標準)」とは?

学校スタンダードとは、端的にいうとマニュアルです。

具体的には、次の3つに分類することができます。

  1. 教育委員会や学校管理職が教員に指導の統一を求める「教員スタンダード」
  2. 教員が保護者に持ち物の基準などを伝える「保護者スタンダード」
  3. 教員が子どもに鉛筆の持ち方や座り方、掃除の仕方を定めた「児童スタンダード」

つまり、教育委員会・校長が、教員・保護者・子どもに定めた標準(スタンダード)なのです。

◆拡大の背景

このような「スタンダード」拡大には、大きく3点、次のような背景があるのではないでしょうか。

  1. 子どもの指導の難しさが広がり、一方で学校現場に若い経験の浅い教員が増えていること。そこで、教育委員会や学校管理職は、即効性のある”マニュアル”に頼った。
  2. 学力調査の再実施。学力上位県の取り組みを持ち込むために、「スタンダード」を利用している。
  3. 多数のクレームが寄せられる現状。学校で統一して決めてやることで、クレーム予防を図る。

3点目のクレームについては、withnewsで現役教員がこう答えています。

「『○○先生はいいといったのに』と言われないためにも欠かせない」と教員。別の教員も「保護者から苦情が来たら、『学校で決めています』と言える」と話す。

(出典:withnews『教育現場に広がる「標準」とは? 〝30秒で泣ける漫画〟の作者が描く』2017年11月03日

◆スタンダードの事例

では、具体的にはどのような標準(スタンダード)があるのでしょうか。

いくつかの事例を例示します。

「子どもの背筋がぴーん」「足裏がピタッ」「鉛筆の持ち方は親指より、人さし指が下になるように」……。岡山県教育委員会が「岡山型学習指導のスタンダード」で掲げる指導の基礎・基本だ。

広島県東広島市は10年から教員と子どもに向け、「あいさつ」「へんじ」「ことばづかい」「はきものをそろえる」など規律のスタンダードを掲げ、標語コンクールも開いている。

都内のある小学校は、教員版のスタンダードを作った。子どもたちに、授業のあいさつ後、先生の顔を2秒見るよう指導する▽「はい、~です」の話形を徹底させる、などを盛り込んだ。

子どもや保護者向けのスタンダードを作った学校もある。東広島市の小中学校では「黙働流汗清掃をします」

神奈川県内の小学校は、筆箱の中身として「Bか2Bのえんぴつ5本」「無地の下敷き1枚」を挙げ、「必要な用具は忘れないようそろえさせてください」などと決めた。

(出典:withnews『教育現場に広がる「標準」とは? 〝30秒で泣ける漫画〟の作者が描く』2017年11月03日

◆「スタンダード」のメリットと弊害

<メリット>

  • 教育技術の可視化・共有化となり、経験の浅い教員にとっては指導のヒントとなる。
  • 担任の暴走を食い止める作用がある。クラス間、学年間の不平等の解消につながる。
  • 教員はこれに依拠して指導すれば、保護者への説明責任を果たすことができる。

<デメリット>

  • 現実には「スタンダード」は約束ではなく「きまり」となり、「標準」ではなく「規準」として機能するケースが多くなる可能性。
  • 何よりも形式的な一致が求められる。
  • 学習規律など一律に求めるのであれば、発達障害や外国籍の子への配慮が欠けてしまう。
  • 教育委員会・校長からの管理が厳しくなる可能性が高い。
  • 教員に対し同じ指導を求めることは、教員の専門職性の解体につながりかねない。

★まとめ

急速に拡がりをみせる「学校スタンダード」。

この「学校スタンダード」には、メリットがある一方で無視できない弊害もあります。

にも関わらず、あまり議論が尽くされていないように感じます。

個人的には、「学校スタンダード」については、もっと批判があって然るべきと考えています。

別の方法もあるはずだ(一人ひとりの教師がその子どもに合った指導を悩むべきと考える)からです。

以上、元小学校教諭・東和誠による、『マニュアル化する学校―「スタンダード」のメリットと弊害について考える―』でした!

◆参考文献

教委や学校のスタンダードは教師が参考にする程度なら、教育の質の向上につながるかもしれない。だがマニュアルのように使われれば、指導が画一化する恐れがある。スタンダードに沿って学習規律を一律に求めるなら、発達障害や外国籍の子への配慮が欠けてしまう。何より問題なのは、教師がスタンダード自体の内容がいいかどうかを吟味しなくなることだ。教師が自らの裁量が失われているのを自覚しなくなれば、行政の管理が進みかねない。

(出典:withnews『教育現場に広がる「標準」とは? 〝30秒で泣ける漫画〟の作者が描く』2017年11月03日

「学校スタンダード」は即効性に期待がありますから、形式的な一致が何より求められます。それに異を唱えるというのは、「学校チーム」を標榜する学校組織の中ではとても困難ですが、教育の豊かさを求めるならば、「学校スタンダード」のもたらすものについて考えておかねばなりません。その時に知っておきたいのは、「学校スタンダード」に示されたことを徹底しなくても、他の指導によって子どもたちは育つということです。

出典:霜村三二「学校スタンダードについて授業で考える」2017年6月22日

「〇〇スタンダード」と称する動きがいまブームとなっている。子どもの学習や生活場面での教師の指導を統一することを「宣言」するとともに、「何年生では、これができる」という到達目標を提示するものだ。たしかに、すべての教師がどの子にも同じ指導をすれば子どもが混乱しなくて済むという意味では教育技術の可視化・共有化という側面はある。教師にとっても個別の事例を前にしていちいち悩む必要がなくなるという意味で、メリットとして受け止められる可能性もある。さらに「約束」として周知し、これに依拠していれば保護者への説明責任を果たすことができる。

しかし、現実には「スタンダード」は約束ではなく、「きまり」となり、「標準」ではなく「規準」として機能し、そこに喜劇と悲劇を生む。なるほど「スタンダードの内容の一つひとつには、とんでもないことが書いてあるわけではない。だからといって、子どもにノートの使い方や返事のしかたなど立ち振る舞いまで指示し、それを家庭や子どもたちの個別の事情を無視して押しけるのは、あまりにも傲慢な発想ではないか。

さらには「何年生なのだから、これができていなければならない」と到達を迫ることには、到達できない子どもが自己責任を問われて排除されてもしかたないのだという開き直りさえみてとれる。一方、教師に対しても一律に同じ指導を求めることは「あなたが判断する必要(=権限)はない」と言われているのに等しい。「スタンダード」が突き進むその先には、教師の専門職性の解体とゼロ・トレランスの世界が待っている。

(出典:PDF「学校スタンダード」ってなんだ?

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