教職は「“特殊な”環境には“特殊な”人が集まる」というターンに入ったのではないだろうか

先週から、今年度実施の教員採用試験の出願状況が発表されている。

川崎市教委 教員試験応募者が激減 本年度 前年度比262人減の1257人(出典:東京新聞2019年6月16日)

教員採用試験倍率5.3倍 仙台市教委分離後最低 宮城県教委(出典:河北新報2019年6月8日)

東京都教員採用、過去10年で最少の応募者数1万2,271人(出典:リセマム2019年6月17日)

どの自治体も倍率低下がとまらない。過去最低を更新した自治体も少なくない。これらの発表を受け、「教育の質の低下につながる」という懸念がなされている。

しかし私がこれらの発表から受けた印象は、それよりも、教職は「”特殊な”環境には”特殊な”人が集まる」ターンに入ってしまったのではないかというものだ。

◆教員は長時間労働を厭わない者ばかり集まった集団に

メディアによる報道やTwitterなどにより教職の長時間労働、とりわけ“特殊な”労働環境が世の中に広く知れ渡ることになった。

教職は、給特法により残業代が支給されない。その“特殊さ”が、勤務時間を「あってないようなもの」として取り扱う労働慣習を生んだ。教職はこの「あってないような」勤務時間での超長時間労働+残業代不支給は、民間企業や他の公務員とは決定的に異なる、“特殊な”労働環境にある。

このような“特殊な”環境下においてそれでも教職を目指し、出願してくる学生の傾向は、どのようなものになるだろうか。

それは、長時間労働を厭わないような”特殊な”者になるだろう。(なかにはこの現状を変えようという気概をもって入ってくる者もいるだろうが、極めて少数だろう)

なぜなら、勤務時間を「あってないようなもの」とするような労働慣習や超長時間労働を許容できない学生は、教職を敬遠する傾向があるだろうことはたやすく想像できるからである。

これが、先に述べた、「”特殊な”環境には“特殊な”人が集まる」という意味だ。

◆”特殊さ”を取り除くことが唯一の改善策

私には、教職は既にこのターンに入ってしまったように思える。

このターンに入ってしまうと、職場にはますます超長時間労働を厭わない者が増え、超長時間労働を許容できない者、健康を害した者などがどんどん退場していく。一方、入場してくる者は超長時間労働を厭わない者だ。悪循環がとまらない。

冒頭の新聞記事によると、川崎市教委の担当者は「インターネットでの広報活動を強化するなど、改善を図る」と話しているようだが、改善を図る必要があるのは広報活動の強化などではない。それは、いち早く教職の”特殊さ”を取り除くことに他ならない。