公教育が校長一人に左右されるシステムで良いのだろうか

定期テストや校則をなくすなど、これまでの常識を打破した学校改革を断行する千代田区麹町中学の工藤校長や世田谷桜が丘中学の西郷校長が賞賛されている。

その賞賛の多くは、公立中でもここまでの改革ができるのか、という具合である。

しかし、これを違う視点でみれば、二人の校長が「公教育が校長一人のパーソナリティーに依存している」ことを浮き彫りにしたともいえるだろう。

◆校長一人が決めるようになった

2001年、学校教育法改正により、職員会議が校長の「諮問機関」となった。それまでは教員同士の話し合いや多数決で決めていた学校運営が、すべて校長の一存で決められることになったのだ。

これはそれまで曖昧だった責任の所在を明確にし、意思決定のスピードを上げるものであったと考えられるが、同時に学校が校長一人のパーソナリティーに依存するようになってしまったといえよう。

この改正により、職員会議は「最後の決め方」だけが多数決⇒校長になるだけならまだ良かったのだが、実際はそれだけにとどまらなかった。どうせ意見を言っても無駄という教員たちのあきらめ、業務の効率化という名のもとに会議の短縮、という事態が起きたのである。

今、多くの学校では職員会議は、もはや”会議”ではない。ただの”伝達”の場にしかなっていないのだ。

本来、改正によっても校長は教員たちの意見を充分に聞いたうえで、最終的に校長が判断するという形が理想だったと思うのだが、現実に起きたことは職員会議の形骸化だった。学校運営において教員の声が届きにくくなり、校長一人に決定権が委ねられたことで学校運営が校長のパーソナリティーに強く依存するようになってしまった。

◆保守的な決定ばかりに…

その影響は教員の声が反映されなくなっただけではない。

決定権とセットで責任を背負わされた校長は、どんどん保守的になった。

校長の権限が強化され、以前に比べ校長は自らが目指す理想の学校運営がしやすくなったにもかかわらず、冒頭の二人の校長がクローズアップされたことからも分かるとおり、ほとんどの校長は「前年踏襲」で学校の改善を行おうとはしない。

それは、権限が強化されたと同時に一手に責任も背負わされることになったからである。

その結果、校長は保身のために、”事なかれ主義”的決定ばかりをするようになり、保護者からのクレームを予防する「スタンダード」のような取り組みに力を入れるようになった。

今、制度改正後の18年を振り返ると、権限が強化されたことにより、1%の校長は子どものために改革に乗りだした一方で、99%の校長は保身に走ったといえるだろう。

◆公教育が校長一人のパーソナリティーに依存するもので良いのだろうか

さて、問題は「公教育が校長一人のパーソナリティーに依存するもので良いのだろうか」ということである。

校長のパーソナリティーにより、定期テストがある学校とない学校、校則がある学校とない学校…。すべてを一律にすべきとは思わないが、問題はこの違いが子どもや地域の実態の違いに依るものではなく、校長の考え方の違いに依るものなのだ。

私は、「校長をチェックする仕組み」がないことが問題なのだと考えている。教育委員会がチェックするのは、明白に問題があるときだけで、彼らにチェック機能があるとはいえない。

私が提案するのは、教員から校長への評価を義務化することだ。(あるいは職員会議を合議制に戻す)

教員の声を上げる場や時間を充分に確保されているか、保身のためでなく子どものことを第一にした決定がなされているか、などについて各教員に校長を評価させれば良い。(さらにその評価を保護者に公開すれば、もっと良い。)

決定権者を一人に絞れば必然的に起きる問題について、「校長試験に合格したのだから」と言うだけではあまりにお粗末である。

◆書籍のお知らせ