「死ね」「キモい」と暴言を受けることは教員の仕事なのか?―「教育者としてそれが仕事だ」と言う校長に対して―

小学校教員時代、その出来事は勤務校の一つで起きました。

その自治体では他の自治体に比べ予算が潤沢だったので、担任のほかに学年に一人程度の支援員が配属されていました。

◆暴言を吐かれる現場に遭遇

ある日私が休み時間に職員室に戻る際、荒れている学級(私の担任するクラス・学年ではない)に入った支援員さんが、そのクラスの子どもたちから「死ね」「キモい」と言われているのを目撃しました。

当然、私は児童に指導を入れましたが、その日の放課後、支援員さんに話を聞くと、そのような暴言は毎日続いているということでした。

そして、担任は、学級が大変でその指導まで行き届かないということでした。

このクラスはいわゆる学級崩壊しているような状態で担任が何か言うことで暴言をやめる状態ではなかったのです。(やめないからといって指導しない、というのは間違っていますが)

◆校長に相談

下っ端の私が先輩にあたる担任に直接言っても角が立つだけだと感じた私は、校長に相談しました。

「支援員さんが毎日暴言を吐かれていてかわいそうだ、あれは人権侵害だ、担任がとめられないなら管理職がやめさせるべきだ」

そういう趣旨のことを申し上げたわけです。

すると、校長から言われたのが、

「確かにあれは暴言だが、子どもたちは本気で”キモい””死ね”と言っているわけではない。本当は支援員さんのことが好きなのだけれど、思春期だからそういう表現になっているだけである。もちろん、好ましい事態ではない。しかし、教員は教育者として暴言を受けるのも仕事なのである」

という内容だったのです。

◆”教育は特殊”だという考え

私は到底納得いきませんでしたが、家に帰ってから、校長が「暴言を受けるのも仕事のうちだ」とそう考える根底にあるものはどういう思考なのかと考えを巡らせました。

そして、私が至った結論は、校長は”教育は特殊である”という思考が根底にあるのではないか、というものです。

教育は特殊だ、通常一般社会では子どもでも「死ね」「キモい」などの暴言は許されない、しかし学校は教育の場だ、子どもは成長の過程にいるのだ、だから(人権侵害に該当する暴言でも)学校では許容されるべきだ、と。

しかし、私の立場は違いました。私の考えは、教育であっても一般社会と同じルールが適用されるべきでいくら子どもであっても「死ね」「キモい」などの暴言は決して許されるものではなく、さすがにいきなり警察に引き渡せ、訴訟を起こせとは思いませんが、当該児童の指導なり、親への伝達なりは行われるべきだという考えでした。

実際、諸外国では、子どもが教師に暴言を吐いたら何らかのペナルティが課される国も珍しくありません。

◆正当化に用いられていた可能性も

結局その校長、その後も状況を放置し続けました。

何も対応しなかったのです。

その時点で私はこう思いました。

  • 面倒なので担任に指導を行いたくない
  • 波風立てたくないので親への伝達も行いたくない

つまり、校長は自らの行動を正当化するための理屈として”教育は特殊だ”という理屈を利用している可能性もある、と。

◆本当に”教育は特殊”なの?

校長が本当に”教育は特殊だ”と信じているか、あるいは意図的に”教育は特殊だ”を悪用しているかはさておき、本当に”教育は特殊”なのでしょうか。

教育哲学者・苫野一徳氏は、著書『みらいの教育』で、

公教育は市民社会を支える根幹なのですから、市民社会のルールにのっとるのは当たり前のことです。

と”教育は特殊”論を論破しています。

★まとめ

教師であっても子どもから暴言を受けることは仕事には入らない、人権は守られるべきである、なぜなら教育は決して”特殊”ではなく、公教育が市民社会のルールにのっとるのは当たり前だから、それが現時点での私の結論です。

ですから児童の暴言同様、体罰や組体操のタワーなど、一般社会で違法とされるものは学校でも行われるべきではない、ということもいえます。

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