「自分である必要のない仕事」に貶めた教育委員会は、教職の魅力・やりがいをアピールする矛盾に気づいていないようだ

昨今、教員の人材不足、教員採用試験の倍率低下等が報道されている。教育委員会の担当者は、こぞって「教職の魅力・やりがい、アピールを」という。

県教委教職員課の藤川正樹課長は「教員として働くことの魅力を発信して、優れた人材の確保に努めたい」と話している。

(出典:徳島新聞「進む教員離れ」2018年11月29日

文部科学省教職員課・佐藤光次郎課長「教員の仕事の重みとかやりがいが、ひとつの選択肢として確実に出てくるような魅力の発信を進めていきたい」

(出典:NHK「公立小中学校の教員不足」2017年7月4日

これまで私は、この類の発言に対し、「そこじゃない、問題は労働環境、教職に魅力があることは分かっている!」と反応してきた。

しかし、ふと、思った。

そもそも、今、教職に魅力はあるのだろうか、と。

◆奪われつつある「自分にしかできない」仕事

魅力というのは主観的なものなので、当然一人ひとりが異なった理想をもっているとは思われるが、私は教職を目指す学生の多くは、教職を通じて「自分にしかできない」仕事をしたいと考えているのではないかと思う。

教職は、一般企業や官庁で働くよりも裁量があり、「自分にしかできない」授業できる、「自分にしかできない」児童・生徒との関わりができる、という「自分にしかできない」仕事ができるという特徴がある(あった)と思う。

教職という仕事は、この点において、最大の魅力があるのではないだろうか。

しかし、昨今、この裁量が徐々に奪われてきている。

授業のやり方から教室掲示までを画一化させる「スタンダード」、黙って自らと向き合うことを促す「無言清掃」、「学力テスト対策」を通じた学力向上・・・・・。

例を挙げればキリがない。これらは本来は数ある方法のなかから教師が自主的に選ぶべき方法の一つに過ぎない指導法なのだが、学校長や教育委員会が上から「このやり方でやるように」と教師に強制してくるものだ。

◆「自分である必要のない」仕事に魅力はあるのか

これらは、経験のない若手教師でも学級経営・授業ができるように、全校で一貫性をもった指導を行うために、という名目で導入・実施されている。

しかし、先にも述べたとおり、指導方法というのは決して一つではなく、教師と子どもが試行錯誤をしながら最善のものをみつけていくものであり、またその過程も含めて教育なのではないだろうか。

確かに、教師一人ひとりが好き勝手にやる状態が良いとは思わない。でもだからこそ、「学習指導要領」という学習の内容を定めた国の基準がある。だから、学習指導要領に準じた内容であれば、その指導方法ついては教師の裁量に任せるべきなのだ。

にもかかわらず、上に立つ者たちが一人ひとりの教師を信頼せず、教師から指導方法を選択する裁量を奪い、一つの方法を強制してくる、これが最近の公教育のトレンドだ。

これでは、極端にいえば教師は、「自分である必要がない」

やり方は既に決まっていて、自分が考える必要がないからだ。

「自分である必要のない」仕事に魅力などあるだろうか。

教職の魅力のアピールが充分でないと考えている教育委員会担当者は、いまだに教職に魅力があると認識しているのだろうが、最後の砦である「教職の魅力」をも自らが奪っていることにはまだ気づいていないようだ。

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