元小学校教員が挙げる、2分の1成人式を即刻やめるべき5つの理由

(出典:YBS山梨放送)

2分の1成人式、子どもたちが親に「育ててくれてありがとう」と感謝を述べる行事。

先日、私が小学4年を担任していた頃にこの行事を取りやめた経験をツイートしたところ、三千リツイートを超える反響がありました。

今回改めて、2分の1成人式をやめるべき理由について、5つにまとめました。

1.いらぬ苦痛を受ける子どもがいる

何といってもこの理由です。この行事によって苦しむ子どもが確実にいます。

私が挙げられるだけでも、

  • 片親に育てられている子ども
  • 施設で生活している子ども
  • 虐待を受けている子ども
  • 親が仕事等で式に来られない子ども
  • 親の事情で親から手紙を貰えない子ども
  • 公の場でありがとうを言いたくない子ども

このような子どもたちが、いらぬ苦痛を受けるのです。

もちろん、これらの子どもたちは少数かもしれません。

しかし、恵まれない家庭環境を強く意識させられたり、プライバシーな心情を公開させられたり、「2分の1成人式は、2分の1虐待」と揶揄されても仕方ないほどのひどい経験を子どもにさせる可能性があります。

2.親を喜ばすためのイベントはいらない

言うまでもなく学校は「子どもを成長させる」場所であって、「親を喜ばす」場所ではありません。しかし、この行事の問題点は、「親を喜ばす」場になっているところです。

彼らは、我が子に「育ててくれてありがとう」と言われ、感動し、涙するのです。

しかし、この”感動ポルノ”を喜ぶ親がいる一方で、少なからず苦しむ子どもがいることは大きな問題です。

学校長が子どもたちのことを第一に考え、プライドをもって取りやめる判断を行えば良いのですが、現在そんな管理職は皆無です。

なぜなら、学校がこの行事を取りやめた日にはクレームを受け、実施すれば称賛を受けるからです。(結果、取りやめるのは私のような異端教員だけです)

これはもう、「マジョリティの暴力」といっても過言ではありません。

実際には、会に感動して涙したり、クレームを入れたりする親の他に、声は挙げないがこの行事を懐疑的にとらえている”まっとうな”親たちも相当数いると私は思います。

しかし悲しいかな学校組織は内部での自浄作用が著しく低い集団なので、彼ら”まっとうな”親”が声を挙げていかなくては変わらないのではないでしょうか。

3.学校は子どもたちが学習をすべきところ

この行事は2000年代に入ってから全国的な広がりを見せてきたものですが、そもそもは「総合的な学習の時間」や「道徳の時間」において、子どもたちが自分自身について考える機会をもつことがねらいの学習だったはずです。

これまでの自分の生活を振り返ったり、将来について考えたりする、そういう学習です。(これについての賛否は別として)

しかし、授業参観に絡めて、手紙などのやり取りを通じた親参加型で2分の1成人式を行ったところ、国語や算数の授業に比べて、「親が喜ぶ」ことが分かったために広がってきたのではないかと私は推測します。

であれば、元々の学習のねらいに戻すべきです。

親とは一旦切り離して、子どもたちが自分自身について考える機会をもてるよう進める学習に戻すべきです。

4.関係者全員が余計な負担を負う

子どもも親も教員も、この行事のせいで関係者全員が余計な負担を負うことになります。

  • 子ども⇒親への手紙を書くために何度も書き直したり、読む練習をしたりする負担
  • 親⇒子どもへの手紙を何の同意もなく、書かされる負担
  • 教員⇒親へ手紙の依頼をしたり、子どもの手紙の誤字脱字をチェックしたりする負担

「育ててくれてありがとう」と言われたい親のために、皆が負わなくて良い負担を負うなんてナンセンスです。

皆ただでさえ忙しいのだから、子どもの「学習」に注力すべきです。

5.そもそも公教育がやることではない

この行事を好意的にとらえる親や教員たちは、「普段家ではお互いなかなか言えないことを言える機会になる」と考えているのだと推測しますが、子どもに親への感謝を述べさせる、そんなおせっかいなこと、公教育のやることではありません。

実施している学校や喜んでいる親たちはおそらく無自覚かと思われますが、

  • 家庭状況を公に明らかにすること
  • 個人の心情を公開させること
  • 家族(親子関係)の価値観を押し付けること

などが行われる可能性があり、それらは公教育の一線を越えています。

そもそも公教育は、様々な家庭状況や学習環境にある児童がいるなか、「学習のスタートラインを揃えること」で平等な学習の機会を与えるべきものです。

言うまでもなく、2分の1成人式はこの「学習のスタートラインを揃える」原則に逆らうものです。

★まとめ

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

  1. 苦しむ子どもがいる
  2. 親を喜ばすためのイベントはいらない
  3. 学校は子どもたちが勉強をすべきところ
  4. 関係者全員が余計な負担を負う
  5. そもそも公教育がやることではない

このように、2分の1成人式をやめる理由はありますが、やめることでの子どもたちのデメリットはほぼないので、即刻やめるべきです。

以上、元小学校教員トウワマコトによる、「2分の1成人式を即刻やめるべき5つの理由」でした!

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コメント

  1. tsutsumi154 より:

    気がついたときには流行ってた謎行事。七五三に入学卒業と成長噛みしめるイベントなんかいくらでもありそうなもんだが

  2. tarako3016 より:

    そうなの。ほんとね、気持ちわるいくらいありがとうありがとうの連呼なの。そんなんいわなくてええんやで、ってなってくる。

  3. さやさや より:

    私が子どもの頃にはこのような行事はなかったけど、あっていたらつらかったと思う。
    望まない女の子でしかも兄弟の中で成績優秀。どうせだったら弟が成績優秀だったらよかったのにと何度言われたことだろう。
    小学校高学年から食事の準備をしていたが、自分が食べるものは家族が残したもの。主食は給食だった。
    周囲に虐待がばれないように親は気を付けていたが、6年生の時の担任が「うちの子のおさがりだけど良かったら使って」ともしかしたら私のために購入したのではないかと思われる服をくれたことがある。

    一方うちの子の学校では1/2成人式があった。
    お母さんが病死した子、片親の子などもいる中行われた。
    1/2成人式ではないが、卒業前にも同様のことをやっていて、聞いててとてもつらかったのは、事業に失敗して全てを失った家庭の子が、贅沢に作られた注文住宅の高い天井からつるされたブランコで遊ぶ写真を出して「これは、私が小さいころに住んでいたとても気に入っているおうちです」と説明し始めた時。
    彼女は5年生の終わりに引っ越してきて、とても小さな安アパートに住んでいた。私服登校の小学校だけど、彼女はお金持ちの子が通う私学の校章がついたランドセルを背負って、私学の制服で通っていた。ご両親に負い目や心配をかけたくなかったのだろう、背筋をピンと伸ばして、毅然として通っていた。
    その子やその子の両親はどういう思いで他の子の幸せなエピソードを聞いたのだろう。

    他にもたくさんの小さい頃の私や、制服の彼女もいることだろう。

    大きくなれば、自分の環境、境遇を受け入れなければいけないとは思うけど、高々10年しか生きていない子どもにそんな厳しい現実を突きつけなければいけないのか?楽しく何の心配もなく無邪気に過ごす子ども時代があってもいいと思っている。

  4. 山口陽子 より:

    12年前に娘と経験しました。当時学級崩壊が騒がれ、「高学年はもう半分大人なんだから自覚ある振る舞いをし、下級生の面倒も見てほしい」という趣旨で始めたと説明を受けました。小学校に入った時は出来なかったけど、今は出来るようになったこと。将来の夢を一人ずつ簡単に発表する会でした。いつから感動ポルノになったんでしょう?「1/2成人式をやっても傷付かない家庭」は家庭内でその事を感謝すればいいと思います。少数であれ(少数だからこそ余計にキツイのですが)大きな傷を負う子が居る事が分かっていて敢えて遂行してはいけないと思います。
    私自身は父のDVのもとで育ちました。父の日の図画の時間に「もっと優しそうに笑っているお父さんの顔を思い出して描いて」と言われ閉口しました。

  5. リチャード より:

    子供が通っていた小学校でも、2分の一成人式ありましたけど、親は行かなかったと思います。幼稚園も、お父さんのいない子が入ったとゆーことで、父の日の行事が無くなりました。それでいいと思います。押し付けて流すのはいりません。

  6. かな より:

    もうすぐ我が子の二分の一成人式で学校に行きます。これって子どもの成長を改めて確認し、大きくなったなと親が喜ぶ行事だと思っていましたが、子どもが親に感謝する行事となってしまっているのですね。子どもが親に感謝をするのは悪いことではありませんが、周りに強要されて感謝するのは違うと思います。私としては、子どもに無事に生まれてきてくれて、無事に育ってくれてありがとうと親から子どもへの愛情と感謝を伝える日だと思ってその気持ちを手紙にしたためました。二分の一成人式がなければ子どもに伝える機会はなかなか無かったと思います。家庭環境も様々な昨今、なかなか難しい問題ではありますが、私個人としてはこの行事で子どもに親としての愛情と感謝を形にして渡せることは嬉しく思います。

  7. ひろみ より:

    近日、参観日に「二分の一の成人式」が行われます。
    我が家は親子で欠席します。
    別に片親ではありませんが、日頃から娘に「ありがとう」と言ってもらえていますし、ある意味恵まれているのだと思います。
    現在16歳になっている上の子の時までは無かった「二分の一の成人式」が翌年度から始まり、たくさんの御父母の皆さんに喜んでくれていると学校の先生方は自画自賛です。
    この日の為に、たくさんの時間を割いて歌やリコーダーなどの練習をします。
    ただでさえ、英語やプログラミングなどやらなくてならない科目が増えているのに、ものすごい速さで授業を進め、たくさんの子供たちが置いてけぼりになったまま進級する様を見ているとわざわざ「ありがとう」と言わせてみたり、子と親それぞれに手紙を強要するやり方が納得行きません。

    他にも不満が山ほどありますが、「二分の一の成人式」ほど個々の家庭の裁量で行なえば良い行事はないと思います。

  8. 通りすがりです より:

    少数派に合わせろと、増えましたね~、こういう意見。
    母の日や父の日に、子どもたちが親の絵を描きたくても、
    施設の子が一人でもクラスにいれば即中止!
    昔はこんな過敏じゃなかった。
    施設の先生が親代わりでいいのに、逆差別みたいです。
    1/2成人式だって、子どもたちがやりたいんならやればいいんです。
    即刻やめるべき!とか言う貴方の態度も何様です。
    教育の現場の主人公は子ども!そこはおわかりですか?
    うるさいうるさい貴方様やここでグズグズ言ってる奥様方のような
    クレーマー様のご意見が通るような教育現場は
    正常な教育現場とは言えないのです。
    子どもたちが嫌がってるのを親が無理にやらせているなら別ですけどね。
    そのへんに論点を合わせることなく、「少数派で傷つく子がいる!
    即やめ~い!」っていうお奉行様になりたいんでしたら別です。
    それを万人に押し付けないんでおくんなまし。

  9. 通りすがりです より:

    元小学校教員とのことですが、、、、
    もし、本当に小学校教員なら貴方のように、これはやめるべき!とか
    頭ごなしに言うような先生に当たらなくて本当に良かったと思います。
    いいですか?
    現場の主役は子どもたちなのです。子どもたちに考えさせることを
    貴方はしてきましたか?自分の考えだけを押し付けてはきませんでしたか?
    文面からはどうも貴方がそういう先生に思えてならないのです。
    もっと広く視点をもって記事を書いてほしいです。
    誰の目にもつくのですから。
    コメント欄は擁護意見であふれてますが、こういう意見もあることを
    ご理解いただきたいです。あまりに不快な押し付けるような文面だったので
    コメントさせていただきました。

    • makomako108 より:

      まずはきちんとメアドを入力してからにしましょうね。

    • ゆうき より:

      現場の主役が子供たちと言うなら尚更1/2成人式など止めるべきです。現場の子供たちにとっては面倒な行事が減った程度のものでしかありません。勿論親への感謝等は考えさせるべきでしょうし手紙を書かせること自体が言語活動になりますからそれが悪いこととは思いません。しかし、それを「式」にするのは少なくとも子供のためではないと思います。
      また、彼のブログを読んでそのように考えるのが不思議で堪りません。押しつけをと言っていますが、自分の正義を押しつけているのは貴方だと思いますよ。

  10. 保護者 より:

    子どもがやりたいのにって言ってる人もいますが、うちの子やりたいなんて一言も言ってなかったですよ。私も学校がやることだからと受け入れていただけで、特別感動もしなかったです。
    むしろ感謝の強要って息苦しくないですか?
    感謝しろの声の方が大きくて、内から湧き出る感謝を無にしてる感じ。