学校には多くの”謎ルール”がありますが、とりわけ多くの小学校では、「授業中、水を飲んではいけない」とするルールがあります。
何もこのルールは子どもに対してだけではありません。
私も小学校勤務時代に教育長が視察に来た授業で、授業中水を飲んで(子どもが飲んではいけないのに教師が飲むとは何事だと)”ご指導”を受けたことがあります。
では今回はこのルールが教育の”特殊性”という視点からみて、妥当性があるのかということについて考えてみたいと思います。
◆授業中、水を自由に飲めない
今、ほとんどの小学校では熱中症対策などもあり、水筒の持参が許可されています。
しかし、自由に飲んでよいとされているのは休み時間だけであり、授業中には飲んではいけないとされている学校が多いです。
なぜそのようなルールを決めているのでしょうか。
◆水を自由に飲ませない理由
考えうる理由を以下に挙げてみます。
- 水を飲んでいて先生の話を聞いていないという事態を避けるため
- 授業中トイレに行きたくならないようにするため
- 机の上・横を雑多にならないようするため
- 教科書・ノートが濡れないようにするため
- トラブルを未然に防ぐためにコントロールするため
こんなところでしょうか。(他にもあったら教えてください)
◆授業中トイレに行くことにそんなに問題があるのか
上記の5点のなかで唯一妥当性に検討の余地があるのは<2.授業中トイレに行きたくならないようにするため>だけではないでしょうか。
つまり、児童は大人に比べ、膀胱が小さいのですぐトイレに行きたくなってしまう、という大人とは異なる”特殊性”がある、ということです。
しかし、授業中トイレに行くことにそんなに問題があるのでしょうか。
◆教育の”特殊性”を適用すべきなのか
先ほど、授業中トイレに行くことに“そんなに”問題があるのかと述べました。
その”そんなに”というのは、教育の”特殊性”を適用してまで、という意味です。
このブログで何度も引用しているように基本的に、
公教育は市民社会を支える根幹なのですから、市民社会のルールにのっとるのは当たり前のこと
(出典:教育哲学者・苫野一徳『みらいの教育』)
です。
その基本を度外視してまで例外的に”特殊性”を認めるべきなのか、ということです。
一般社会で45分(授業時間)も水を飲んではいけない、というルールが用いられている場が他にあるでしょうか。
ないですよね?
水を自由に飲みたい時に自由に飲む、というのは、重要な基本的な人権の一つです。
つまり、教育の”特殊性”にかんがみて、学校が人権を制限するルールを運用することについて妥当性があるのか、ということです。
そもそもその妥当性を検討したうえでルールを作っているのか、という疑問もあります。そのルールが制定された経緯や理由が保護者には提示されぬまま、慣習として行われていることが多いからです。
★まとめ<個人的意見>
私の個人的な考えは、公教育は可能な限り、どうしてもやむにやまれぬ事情がない限り、教育の”特殊性”を適用すべきでない、というものです。
なぜなら、教育の”特殊性”を安易に持ち出すと、
- 教育だから暴行(体罰)はOK
- 教育だから組体操タワーはOK
- 教育だから教師の無賃残業はOK
と一般社会のルール・法律とは異なる秩序のなかで、被害者が生まれるからです。
今回考えてきたルールについては、たかが水ですが、その根底には学校が教育の”特殊性”という武器を手に、誰の同意もなく勝手に子どもや教師の人権を制限している問題があるのではないか、ということを提示しました。
以上、『「授業中、水を飲んではいけない」というルールに妥当性があるのか―教育の”特殊性”にかんがみて考える―』でした!